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なぜ出産施設は疲弊したのか—日母産科看護学院の半世紀
中山まき子(同志社女子大学/社会科学研究所私学研究員)

日時:2014年 1月14日 14時50分-16時30分
場所:センター会議室(赤門総合研究棟5F)

報告要旨

 日本の出産・助産環境は悪化の一途をたどり、子どもが生まれにくい社会というだけでなく、子どもを産みにくい社会になりつつある。20世紀後半から21世紀に入り、次々と産科施設の閉所、産科医師不足、総合病院の産科部門休止、助産院閉所などが報じられてきた。あるいは、救急の妊産婦を速やかに受け入れる産科施設が見つけられなかったがゆえの事故も生じている。こうした事態は、「出生率の低下・少子化ゆえに病院・診療所等では経営課題が生じ、淘汰せざるを得ない」という需要と供給のバランス問題だけではない。

 また、出産は生理的現象でありつつも、その諸環境は極めて政治的にコントロールされ(例:中山著『身体をめぐる政策と個人』、他)さまざまなポリテックスが作用している。

 本報告では、疲弊する日本の出産・助産環境に焦点をあて、約半世紀(1950年代から2010年頃まで)の出産にかかわる施設の変容とその要因を分析・考察する。

 日本では、出産に対応する施設は医療法の定めにより三種類ある。病院(床数20床以上)、「診療所」(19床以下)、そして助産所(独立開業権を有する助産師によって担われる施設)である。また、出産に対応できる専門職は、医師と助産師である。そこで、具体的に「病院・診療所・助産所」という三種の施設それぞれの疲弊から閉所・廃業の過程とその要因を解明する。なお、本報告は単著構想である『なぜ出産施設は疲弊したのかー日母産科看護学院・医療法改定・厚生諸政策のゆくえー』の一部であり、副題に示した三種の分析対象の中から、ここでは「日母産科看護学院」の盛衰と「診療所」の疲弊との関係について報告する。

 1949年に日本母性保護医会(日母と略)が結成されると、その後約10年間にわたり日母は「助産補助要因/准助産婦」の育成を求め続け、ついに1962年に単独で愛知県に「准助産婦養成」施設第1号を開校させる。以降2005年に「日母産婦人科看護研修学院」(名称を複数回変更)事業を全面的に廃止させるまでの約50年の、同所の発展・批判・綱紀粛正・閉所の推移をたどる。

 その上で、(1)日母産科看護学院の開所と閉所が、診療所の盛衰/開閉を大きく左右したこと、(2)日母産科看護学院の発展の中で、「助産」から「分娩管理・医療管理」へと産をめぐる主体の転換がなされていったこと、(3)「助産」「分娩管理」「内診」「診療の補助」等、医療者の行為をめぐる定義と論争について、(4)診療所運営に内包されるジェンダー課題や女性の一流・二流専門職などについて分析・考察する。なお、出産当事者を核としたクリニカル・ガバナンスの構築に向けて何が欠落し、何が必要かを可能なら考察したい。


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