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金 泳鎬

東京大学社会科学研究所 外部評価報告書
2000年2月22日

1 はじめに

 私は個人的に、東京大学社会科学研究所に対してある種の期待もしくはあこがれというものをもっておりました。私自身の35年前のささやかな経験ですが、1960年代半ば、私がまだ大学院生だったころに、いわゆる「トッブースウィージー・高橋論争」が起こり、その関係で社会科学研究所の高橋幸八郎先生に個人的に質問の手紙をお送りしたことがあります。もちろん返事が来るなどとは思っていませんでしたので、原稿用紙20枚くらいの返事を頂戴したときには、本当に感動しました。以後35年間、そのときの感動が私の心の隅に残っており、そのためどうしても社会科学研究所に対してはいろいろな期待なり注文がでてきてしまいます。その点を最初にご理解いただければ幸いです。

 私の期待もしくは注文は次の3つにまとめることができるかと考えます。

 一つめは、社会科学研究所が日本のみならず、アジアを代表して社会科学の再建を目的とする純粋の研究所を目指すべきであること、二つめは、インターディシプリナリーな手法による社会科学の総合研究を推進すること、三つめは、アジア諸国を含む外国人に門戸の開かれた、マルチ・インスティチュートを目指すべきであること、この3点です。

2 現代日本社会研究からアジアをベースとする世界研究へ

 社会科学研究所の今後の方針としては、現代日本社会の研究が中心をしめるようになっています。私個人の印象ですと、社会科学研究所は社会主義国や社会主義理論の研究が昔は盛んで、最近になって「脱亜入欧」に向かっているという感じをもっています。ところで、日本には日本研究センターや日本経済研究所のようなものが沢山あります。韓国には韓国社会研究所があり、もっぱら韓国の研究を進めている。中国も同じです。アジア諸国はそれぞれがナショナリスティックに自分の国の研究を進めようとしているわけです。しかし日本の社会科学研究所だからといって、現代日本社会にのみ関心を向ける必要がはたしてあるのか。

 もちろんそういう研究や関心も非常に重要だとは思いますが、アジアで、あるいは日本で自分の国にのみ目を向けるのではなく、世界の問題に目を向ける研究所、それもアジアの社会科学者が参加して共に世界問題を研究する世界的なレベルの研究所があってもよいのではないか。そして、こうした研究所をつくることができるのは、アジアの中では日本しかないし、日本の中でも東大の社会科学研究所しかないと私は思います。

 一方、現在のアジア地域では、社会科学研究の再建が非常に重要な時期にさしかかっていると考えます。例えば、アジア諸国はいま産業化の時代を終えて、民主化の時代を迎えつつある。日本、韓国、台湾いずれの国・地域も民主化の進展によって、初めて [Civil Asia]、[Social Asia] が可能になるような時代を迎えつつあります。他方、インターネットを通じたサイバー市場経済がすでに作られた市民社会を崩壊させつつあるという事態も起きています。そうした2つの流れの中で、社会科学の再建は極めて重要になっている。とりわけ東アジアや東南アジア地域の人々がどのような社会科学を目指すのか。そのことを私はもっと自覚的に取り上げるべきだろうと考えます。そしてそうした議論がアジアの側からできるのは、やはり金持ち国家日本の研究所しかない。

 ですから、東京大学社会科学研究所に対しては、現代日本の研究も重要だし、欧米諸国との比較も重要ではあるが、あえて「世界」を研究の対象とし、社会科学の再建に貢献してほしいという期待があります。「脱日本」であり「脱アジア」でありながら、さりとて「入欧」ではなく「入亜」の姿勢をもってもらいたいと考えるわけです。

3 マルチバーシティ、総合的な社会科学研究の必要性

 次に、社会科学研究所は全所的に取り組むべきテーマとして、現代日本社会の総合研究を掲げております。政府、企業、家計、そして労働を含む社会の研究がそうですが、ここでいう「社会」の意味がはっきり言ってあいまいではないかと思います。かつてカリフォルニア大学バークレー校にいたときに、「バークレー校はユニバーシティではなくマルチバーシティである」という紹介があり、大変面白いという感想をもちました。マルチバーシティ、あるいはインターディシプリナリーな研究をめざす研究所、それが私の2番目の提案です。

 もちろん、インターディシプリナリーな研究の必要性というのは、これまでも繰り返しさまざまなところで言われてきました。簡単そうで難しい課題であることは分かっています。また、配付された資料のように、政府、企業、家計、狭い意味での社会を各研究者が分担し、その成果をよせ集めて総合すれば、それがある国の「社会」の総合的な研究につながるともいえません。例えば、社会科学研究所の過去の業績である『現代日本社会』をみますと、政治学、経済学、法学などいろいろな分野の人たちがそれぞれ分担して共同研究を進め、それを集めてシリーズを刊行している。しかし社会科学研究所に所属するというそれだけの理由で、研究者が集まって本をつくる、1つの論文集をつくることさえできないかもしれない多様な研究者たちが1つの共同研究書をつくったというだけでよいのか。もっと、社会全体をとらえる共通の視点、社会分析にリアリティを与える理論的枠組みや方法論も必要ではないかと思います。

 例えば、現在のアジアをみていく場合には、市民社会をどう分析するかという視点がどうしても必要となる。あるいは、現代アジア社会研究というテーマを設定した場合に、どういう視角が必要となるのか、改めて考えてみる必要があると思います。この問題は、2で述べたアジア地域における社会科学の再建とそのための日本における研究所の存在という私の提案とも、密接に関係しています。 それとの関係で、思い出すのはマーシャルの「非重要性の重要性」という言葉です。例えば、日本社会の重要な側面だけに、あるいは日本社会の「光」だけに目を向けると、どうしてもプラグマチックな研究に傾斜してしまいます。いまは重要ではないが、別の角度からみると重要となりえる問題、不必要なものの必要性、そういう側面にも関心を向けた社会研究が必要だろうという気がします。先に「脱日本・入亜」と書きましたが、さしずめ「脱光・入陰」の研究姿勢も必要だと考えます。

4 外国人を加えた共同研究体制

 ロンドン大学に行きますと、スタッフのうちじつに33%が外国人教授でしめられています。欧米諸国の場合には、他の国籍のスタッフを多数抱えています。一方、社会科学研究所の日本語で書かれた紀要や論文集・シリーズ刊行物を見ますと、外国人の貢献がほとんどありません。2でアジア諸国は自分の国の研究から離脱すべきだと書き、3でインターディシプリナリーな研究の必要性を強調しました。しかし、そのためには、スタッフや共同研究のメンバーにもっと自国籍以外の研究者が参加すべきだと考えます。日本の福井県立大学の経済学部で、日本人、中国人、韓国人、ロシア人、オーストラリア人などが教授スタッフになってアジア経済を研究することを見て印象的でした。20世紀を越えたいまの段階で、東京大学社会科学研究所くらいはせめて開かれた「マルチ・インスティチュート」を目指してほしいというのが、私の気持ちです。そのことにより、世界を対象とした新しいパラダイム研究の可能性も開かれてくると考えます。

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