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新刊著者訪問 第32回

『統計は暴走する』
著者:佐々木 彈
中央公論新社 2017年9月:780円(税別)

このページでは、社研の研究活動の紹介を目的として、社研所員の最近の著作についてインタビューを行っています。

第32回は、佐々木 彈『統計は暴走する』(中央公論新社 2017年9月)をご紹介します。

本書は、タイトルが「統計は暴走する」、帯には「あなたは『統計』に操られている」と目を引く言葉が並んでいて、書店で手にとって見たくなります。2017年11月2日の東大生協ベストセラー最新ランキング新書部門で1位になったとのこと、おめでとうございます。早速ですがこういうタイトルや、小見出しの「統計はだます」「盗む」「迫害する」「殺す」といった過激な言葉遣いにはどういう意図をこめられたのですか?

 「だます」: 統計と聞くと何やら無機質で器械的な数値の集まり、みたいな印象を受けることが多いかも知れませんが、統計が自然界に元々存在するわけでは無論なく、人工物であることは明らかです。ですからそこには当然、情報の収集・加工・発信に携わる者たちの「意図」が介在するのです。
 「盗む」: 現代の標準的な「研究倫理」は、積極的な嘘を禁じているだけで、自分に都合の好いことだけを発表し不都合なことは隠す、という取捨選択は禁じられていません。客観的で中立公正かに見える「統計」は、こうして利益誘導にも使えるわけです。
 「迫害する」: 自分に都合の好いことだけを言うかわりに、相手に都合の悪いことだけを探せば、差別や偏見を煽ることもできます。
 「殺す」: 健康や環境などに関する(意図的かどうかはともかく)誤った統計的言説には、多数の人命に関わる犯罪的なものまで存在しますので充分注意が必要です。

言われてみれば、確かに頷けますね。さて、本書は、社会科学研究所のデータアーカイブ研究センター主催の「計量分析セミナー」での講義を基に書かれたそうですが、どのようなセミナーだったのですか?

計量分析セミナーポスター1 計量分析セミナーポスター2

 セミナー(1日集中講義)は毎年度、微妙にテーマを変えていますが、或る年に「統計リテラシー」というのをやってみたのです。統計で「犯罪的な誤り」を犯さないよう、またもし他の著者・研究者が発表した統計文書を読むときは、そのような誤りが潜んでいないか確認するよう、原則大学院生以上の研究者たちを対象に注意喚起する、という内容でした。受講者の皆さんからは、うち(各自の所属研究機関)でもそういう(偏った)統計分析をしたり、それを発信したりしています(いました)、というような自己批判めいたコメントも聞かれました。

そういう受講者とのやりとりも書籍化につながったのでしょうか?

 そうですね、この集中講義を朝日新聞の駒野剛編集委員が全国紙に記事化して下さり、そのご縁もあって出版社数社より書籍化のご提案を頂戴しました。尤もこの講義自体は過去数年度に亘ってテーマを変遷させつつ継続してきたものなので、全部を1冊に押し込むのは当然無理ですから、中公新書ラクレ本に収まっているのは講義資料の一部に、最新記事等に関する更新情報を加筆したもの、ということになります。

「統計リテラシー」という言葉、いつごろからどのようにクローズアップされるようになったと思いますか?

 出典等を網羅的に調べ上げたわけではありませんが、恐らく最も人口に膾炙したのは「ネット・リテラシー」「情報リテラシー」(等々、類似表現多数)といった概念だったと思います。インターネットが急速に普及した前世紀末頃から脚光を浴び始めたこの「情報リテラシー」の中で具体的に重要な要素は何か、と考えたとき、圧倒的に使用頻度も高く、難易度的にも自明でないのが、この統計に関するリテラシーではないか、と思ったのです。
 また、リテラシーという語の本来の辞書的字義からは若干離れますが、「ネット・リテラシー」が「ネットに掲載された情報は何でも全て正しいものと鵜呑みにせず、真贋を見抜く」ことを指す(含む)のと同様、「統計リテラシー」も「統計は全て科学的に正しく、客観・中立だ、という思い込みを排し、批判的に読む」ことを含みます。

なるほど、では先生ご自身は統計をどのように「操って」いらっしゃるのでしょうか?

 統計を自ら悪用・誤用しないこと、他人による統計の悪用・誤用を見抜きそれにだまされないこと、も無論大切ですが、たとえ本当に過失の無い場合であっても、過失を疑われぬよう「李下に冠を正さない」ことも心掛けたいものです。この意味で、所謂「一次資料」すなわち自らの手によるデータの収集・編纂、に拘泥する一部の「狂信者」たちの価値観には、私見ですが賛同できません。もし可能であれば、他人が他の(又は汎用)目的で収集したデータを引用する「二次分析」のほうが、データの収集・加工段階での恣意や偏向の謗りを免れ易いと言えます。
 更に、同じ二次分析と言っても、高額のアクセス料を課すような秘匿性の高いデータや、近年大流行の所謂「ビッグデータ」(巨大データ)のように膨大な情報処理能力を具えた計算設備に依拠するものほど、他者による再現(検算)可能性が制限・減殺されるという意味で科学研究の本領にもとります。誰でもタダで(ないし極めて廉価に)自由に閲覧・入手可能な純然たる公開データのみに基づく研究こそ、科学者としての「職人気質」ではないだろうか、と個人的には思います。

最後に読者へのメッセージとして、「統計リテラシー」で大切なことを教えて下さい。

 統計は、対象となる事実の記述であり分析であると同時に、その報道でもあります。その中でも科学的に「優れた」ものほど事実報道に近く、科学性の低いものほど意見報道の色彩が強い、といった一般的傾向はありますが、何れの場合も発信者の意図が、事実的か意見的かという性格も含めて受信者に正しく伝わる限り、害はありません。
 社会科学が自然科学と根本的に異なる点は、題材の性質とも関係しますが、一口に言えば「意味を考える必要がある」ということだと思います。ですから社会科学において所謂「価値自由」がどんな場合にも必ず至上命題である(べき)か、は両論の余地がありそうです。問題なのは、統計報道における意図や意見の混入そのものよりも、そのような意図ないしは意図の存在そのものが、受信者に正しく伝わらず、意見報道であるにも拘らず事実報道かに誤解(そしてしばしば盲信)される危険性のほうです。
 程度の差こそあれこのことは、統計的に報道される題材が何であるかに関わらず共通の問題です。「自然科学的」な題材であっても、統計である以上、必ず何らかの人為が介在します。言い換えれば、統計とは単なる数学ではなく「顔のある」「人間くさい」「社会的な」数学であり、常にその意味を考えながら読み書きすべきものだ、ということになります。

(2018年8月24日掲載)

佐々木彈先生

佐々木 彈(ささき だん)

東京大学社会科学研究所 教授

専門分野:法と制度の経済学


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